まだ小さなこどもの生徒さんが曲の譜読みをして、ある程度弾けるようになったある日のレッスンでのことです。
先週までは技術的なことやアーティキュレーションを整えることをメインにレッスンをしていました。今週、その生徒さんが弾き始めて「あらら??」と思いました。先週までと何か様子が違うのです。音が弱々しく、元気がありません。どうしたんだろうと思いながら、「私だったらこの曲はこんな風に弾くけどな~!」と言って弾いて見せてみました。すると、なんだか驚いた顔に。なぜ驚いているのか。。。頭の上にハテナマークがたくさん点灯している私に、お母様が理由を教えてくださいました。
この生徒さんは、この曲を「静かな雰囲気でやわらかく弾く」曲だと思っていたようなんです。一方、私はこの曲は生き生きとした元気の良い曲だと思っていたので、出だしがフォルテだったこともあり、大きな音で生き生き弾きました。
生徒さんが自分で曲の雰囲気を考えて表現してみようと思ったこと自体は素晴らしいことです!先生としてそれはとても嬉しいです。
しかし!
クラシック音楽の場合、表現の自由というのは、即興のように完全に奏者に委ねられているわけではなく、あくまでも楽譜があってそこにある作曲家の想いを読み取った上での自由なのです。楽譜というのは台本です。もし浦島太郎が亀の背中に乗って竜宮城に行くというワクワクする描写を不安いっぱいの声で演じたらそれは雰囲気が違うのでは、と思うはずです。楽譜に書かれている強弱やテンポ、スタッカートや音の跳躍、題名のある曲なら題名からもどんな雰囲気の曲なのかを掴み取ることが大切です。まだピアノ歴が短くて曲数もこなしていないこどもの生徒さんが曲の雰囲気を読み間違えることはあるでしょう。そのときに「好きなように弾いたらいいよ」ではなく、この曲はフォルテで始まるよ、などと見るべきものを伝えながら「こんな雰囲気なのではないかな」と導いてあげることが大切だと思っています。だんだん曲数をこなしていくと、「前にもこんな感じの曲を弾いた」という経験から雰囲気を読み取れるようになってくるでしょう。
ある高名な音楽家が「守・破・離」という芸道における修行の過程を示す言葉が、音楽を学ぶときにも当てはまるということを話されました。守は師の教えを守ること、つまり基礎を学ぶ段階です。
なるほど~と思いました。守のときにしっかり基礎を固められれば、破・離に進めるでしょう。同時に、先生が一方的に強権すぎて破・離に進めないようなことは生徒さんが音楽家として伸びないので避けなくてはなりません。テクニックなどの技術面、雰囲気を掴むなどの音楽的なこと、実際にそれを音にする表現力、これらのこと全てに基礎の「守」があると思います。
こどもそれぞれの自由な感性を潰すことなく、さらにそれが生きていくように、なるべく早いうちから基礎を身につけてほしいと願いながらレッスンをしています。
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